使徒行伝 26

1 アグリッパはパウロに、「さあ、おまえの言い分を話せ」とうながしました。 そのアグリッパに敬意を表してから、パウロは話し始めました。 2 「アグリッパ王。 あなた様の前で釈明できますことを、たいへん光栄に存じます。 3 あなた様がユダヤ人のおきてと習慣に特に精通しておられるからです。 どうぞ忍耐してお聞きくださいますように。 4 このことは、ユダヤ人もよく知っているのですが、私はタルソで生まれ、エルサレムで、ユダヤ教徒としての徹底した訓練を受け、それにふさわしく生きてまいりました。 5 また、ユダヤのおきてと習慣を守ることでは、最も厳格なパリサイ派の一人でした。 その気さえあれば、ユダヤ人も簡単に証言できることです。 6 しかし、彼らが訴えたいのは、そんなことではありません。 私が、先祖に与えられた約束の実現を待ち望んでいることが、彼らの気に入らないのです。 7 イスラエルの十二の部族は、私と同じ希望をいだいて昼も夜も努力してきたというのに……。 王よ。 それが、私だけ罪に問われるとは、理にかないません。 8 死人の復活を信じることが犯罪でしょうか。 神様が人間を復活させることは、そんなに信じがたいことでしょうか。 9 かつて私は、ナザレのイエスの弟子は撲滅すべきだと堅く信じていました。 10 ですから、祭司長たちの手先になり、エルサレムでクリスチャンを片っぱしから投獄し、裁判の時には、死刑に賛成の票を投じました。 11 また、クリスチャンに、キリストを冒涜することばを吐かせるためには手段を選ばず、拷問を加えることもしばしばでした。 それほど激しく反対していた私ですから、遠く外国まで迫害の手を伸ばそうとしたのも、不思議はありません。 12 ところが、何もかも祭司長たちから任され、そのつもりでダマスコに向かう途中、 13 あれは、ちょうど正午ごろでしたが、太陽よりもまばゆい光が、天から私と連れの者とを照らしたのです。 14 私たちはみな、その場に倒れました。 その時です。 私は、ヘブル語でこう語りかける声を聞いたのです。 『パウロ、パウロ。 なぜわたしを迫害するのか。 そんなことをしたら、自分が傷つくばかりだよ。』 15 『あなた様は、いったいどなたです?』と私は尋ねました。…

使徒行伝 27

1 ようやく、船でローマに向かう手はずが整い、数人の囚人といっしょに、パウロは、ユリアスという親衛隊の士官に引き渡されました。 2 私たちが乗り込んだ船は、トルコ沿岸の幾つかの港に寄港して、ギリシヤに向かうことになっていました。 テサロニケ出身のギリシヤ人アリスタルコも同行したことを、書き添えておきましょう。 3 翌日、船はシドンに入港しました。 ユリアスはパウロにとても親切で、上陸して友人を訪問したり、もてなしを受けたりすることを許可してくれました。 4 やがて、そこを出帆しましたが、まずいことに、向かい風が吹いてきました。 予定の進路をあきらめなければなりません。 キプロスの北側の島と本土との間を通ることになりました。 5 あとは、そのままキリキヤとパンフリヤの沿岸を航行して、ルキヤ地方のミラに入港しました。 6 ここで、親衛隊の士官は、アレキサンドリヤから来た、イタリヤ行きのエジプト船を見つけ、私たちを乗り込ませました。 7-8 数日の間たいへんな航海を続け、ようやくクニドはもう目と鼻の先という所まで来ましたが、風があまり強くなったので、サルモネ港の沖を通り、クレテの島陰を進みました。 ひどい風に苦労しながら、島の南岸をゆっくり進んで、やっとのことでラサヤ近くの「良い港」と呼ばれる所にたどり着きました。 9 そこに数日とどまりましたが、もう秋分も過ぎ、天候も、長期の航海には危険な時期になっていました。 パウロは航海士たちに忠告しました。 10 「皆さん。 このまま進んだら、きっとひどい目に会いますよ。 難破して積荷を失うだけならまだしも、けが人や死者が出るかもしれません。」 11 しかし囚人を護送している士官は、パウロのことばよりも、船長や船主のことばに耳を傾けたのです。 12 その上、この「良い港」は吹きさらしの場所で、冬を越すには適していないこともあって、大部分の船員も、海岸沿いにピニクスまで行き、そこで冬を過ごしたほうがいいと主張しました。 ピニクスは北西と南西だけが入口になっている良港でした。 13 折からおだやかな南風が吹き始め、絶好の航海日和と思われたので、船は錨を上げ、沿岸を進み始めました。 14-15 ところが、それもつかの間、突然天候が変わり、ひどい暴風〔ユーラクロン〕が襲ってきて、あっという間に船は沖へ沖へと押し流されました。 最初のうちは、なんとか岸へ引き返そうと必死で船を操作した人々も、どうにも手のつけようがないとわかると、すっかりあきらめ、船は吹き流されるままでした。 16 しかし、ようやくクラウダという小島の陰に入り、ほっとひと息です。 引いていたボートを、なんとか甲板に引き上げ、 17 船をロープで縛って、船体を補強しました。 また、アフリカ海岸の浅瀬に乗り上げないように、船具をはずし、風に流されるままにしました。…

使徒行伝 28

1-2 そこがマルタと呼ばれる島であることは、すぐにわかりました。 島民はとても親切で、雨と寒さでぶるぶる震えていた私たちを暖めようと、浜辺でたき火をしてくれました。 3 パウロが一かかえの木切れをたばねて火にくべると、熱気でまむしがはい出し、手に巻きつきました。 4 島の人たちは、まむしがぶらさがっているのを見て、「きっと人殺しなんだよ。 海からは助かっても、正義の女神がお見のがしにはならないんだね」と、ひそひそささやき合いました。 5 ところがパウロは、平気な顔でまむしを火の中に払い落とし、ぴんぴんしています。 6 人々は、今にも、はれ上がるか、突然倒れて死ぬのではないかと、息を殺していました。 しかし、いくら待っても、いっこうに何も起こりません。 今度は、パウロを神だと考えるようになりました。 7 この浜辺の近くに、島の首長ポプリオの領地がありました。 首長は私たちを招き、三日間も親切にもてなしてくれました。 8 ところが、ポプリオの父が高熱と赤痢で苦しんでいるというので、パウロが行って、彼のために祈り、手を置いて治してやりました。 9 これを聞くと、島中の病人がぞくぞく詰めかけ、みんな治してもらいました。 10 それで彼らは、私たちを非常に尊敬し、また出帆の時には、旅に必要なあらゆる品物を、船に積み込んでくれました。 11 難破してから三か月後、今度は、この島で越冬していた、アレキサンドリヤの「ふたごの兄弟号」という船に乗り込むことになりました。 12 最初の寄港地はシラクサで、三日間停泊し、 13 そこからずっと遠回りして、レギオンに行きました。 一日すると南風が吹き始めたので、翌日には、順調にポテオリまで進むことができました。 14 そこで数名のクリスチャンに出会い、勧められるままに七日間世話になってから、ローマに向かいました。 15 私たちのことを聞いて、ローマのクリスチャンたちは、わざわざ、アピア街道のポロまで迎えに来てくれました。 トレス・タベルネという所で落ち合う人たちもいました。 パウロが、この人たちに会えたことを心から神に感謝し、勇気づけられたことは言うまでもありません。 ついにローマ 16…

ローマ人への手紙 1

1 キリスト・イエスの奴隷であり、伝道者として選ばれ、神様の良い知らせを伝えるために遣わされたパウロが、この手紙を送ります。 2 この良い知らせは、ずっと以前から、神様が預言者を通して、旧約聖書の中で約束しておられたもので、 3 神のひとり息子、主イエス・キリストに関するものです。 この方は、人の子として、ダビデ王の家系にお生まれになりました。 4 しかも、死んでのち復活することにより、神様のきよい性質を備えた、力ある神のひとり息子であることが証明されたのです。 5 このキリスト様を通して、今や、神様のすべての恵みが、それを受ける資格のない罪人の私たちに、あふれるばかり注がれています。 そして今、私たちは、神様が人類のためにしてくださったすばらしいことを、全世界の人々に知らせるために、キリスト様から遣わされているのです。 それは、すべての人がキリスト様を信じ、従うようになるためです。 6-7 ローマの愛する皆さん。 あなたがたも、キリスト様に深く愛されているのです。 また、イエス・キリストに招かれて、神ご自身のもの、つまり神様の聖なる民とされているのです。 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、神様の豊かなあわれみと平安が、あなたがたに与えられますように。 8 何はさておき言っておきたいのは、どこへ行っても、あなたがたの評判を耳にするということです。 神様を信じるあなたがたの信仰は、世界中に知れ渡っているからです。 私は、この良い評判を聞くたびに、イエス・キリストによって、どんなに神様に感謝していることでしょう。 9 あなたがたのために私がどれほど祈っているかは、神様がご存じです。 私は、神様のひとり息子についての良い知らせを人々に伝えながら、全力投球で仕えている神様に、あなたがたに必要なものが与えられますようにと、昼も夜も祈っています。 10 また、神様が許してくださるなら、いつかあなたがたを訪ね、できれば安全な旅をしたいと、いつも祈っています。 11-12 どうしても行きたいと思うのは、信仰をいくらかでもお分かちして、あなたがたの教会が、主にあって強く成長するように役立ちたいからです。 それに、私も皆さんの助けが必要です。 私の信仰をお分かちするだけでなく、あなたがたの信仰によって、私も力づけてもらいたいのです。 こうして私たちは、お互いに励まし合えるでしょう。 13 愛する皆さん。 私がこれまでに何度も、あなたがたのところへ行こうとしたことを〔しかし、その計画は妨げられてきました〕ぜひ知っていただきたいのです。 他の国の諸教会でと同様に、あなたがたのところでも、すばらしい成果を得たいと思ったのです。 14 私はあなたがたにも、また、ほかのすべての人にも、文明人にも未開人にも、教育のある人にもない人にも、ばく大な借りがあります。 15 ですから、何とかして、ローマにいるあなたがたのところにも、神様の良い知らせをお伝えしたいと、心の底から願っているのです。 16 というのも、キリスト様についての、この良い知らせを、私は少しも恥じてはいないからです。 この知らせは、それを信じる人をだれでも天国に導く、神様の力ある手段です。 この知らせは最初、ユダヤ人だけに伝えられていました。 しかし今では、すべての人が、この同じ方法で神様のもとに招かれているのです。 17 この良い知らせは、私たちがキリスト様を信じておゆだねする時、神様は私たちを、天国に入るにふさわしい者、すなわち、神様の目から見て正しい者としてくださる、と教えています。 これは、初めから終わりまで、信仰によって達成されます。「正しい人は信仰によって生きる」と、旧約聖書に書いてあるとおりです。…

ローマ人への手紙 2

1 こう書くと、あなたは「なんてひどい連中だろう」と言うかもしれません。 しかし、ちょっと待ってください。 あなただって、悪いことにかけては五十歩百歩ではありませんか。 「そんな悪い連中が罰を受けるのは当然だ」ときめつける時、ほかでもない自分自身にそう言っているのです。 あなただって、同じことをしているのですから。 2 そういうことをする人には一人残らず、神様は、正義をもって罰をお下しになることを、私たちは知っています。 3 それなのに、あなたは、「ほかの人の場合はいざしらず、私の場合は別だ。神様は見逃してくださる」と、たかをくくっているのですか。 4 神様がどれだけ忍耐しておられるか、わからないのですか。 それとも、そんなことは気にもかけないのですか。 神様があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。 それがわからないのですか。 神様のやさしい思いやりは、あなたを悔い改めに導くためのものです。 5 ところが、どうでしょう。 あなたは耳を貸そうともしません。 強情をはり、罪から離れようともしません。 こうして、恐ろしい刑罰をどんどん積み上げているのです。 なぜなら、神様が裁判官として立ち、すべての人を正しくさばかれる、御怒りの日が近づいているからです。 6 神様は、一人一人に、その行ないにふさわしい報いをお与えになります。 7 神様の喜ばれることを忍耐強く行ない、目には見えなくても、神様が与えようとしておられる栄光と栄誉と永遠のいのちとを求める人には、それが与えられるのです。 8 けれども、神様の真理に逆らい、不正な道を歩む人には、恐ろしい罰が下ります。 神様の怒りは、そのような人々に注がれるのです。 9 罪を犯し続ける人には、ユダヤ人にも外国人にも、同じように悲しみと苦しみが降りかかります。 10 反対に、神様に従う人には、だれであっても、神様からの栄光と栄誉と平安とがあります。 11 なぜなら、神様はすべての人を公平に扱われるからです。 12-15 神様はどんな罪も罰します。 外国人が罪を犯した場合、たとい彼らが、文字に書かれた神様のおきてを知らなくてもです。 彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。 心の中には、神様のおきてが書かれてあるのです。 つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。 ユダヤ人が罪を犯した場合、神様は彼らを罰します。 神様のおきてが与えられているのに、従わないからです。 彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。 結局のところ、なすべきことを知りながら実行しない人は、救われないのです。 16 神様のご命令によって、キリスト・イエスが、すべての人の心の奥底に潜む思いや動機をさばかれる日が、必ず来ます。 このことは、私が伝えている神様の偉大なご計画の一部です。 17 あなたは、自分はユダヤ人だと称し、「ユダヤ人には神様のおきてが与えられているのだから、私と神様との間は万事うまくいっている」と考え、「私たちは神様と特別親しい関係だ」と自慢しています。 18 確かにあなたは、神様が何を求めておられるかを知っています。また、小さい時からずっと、神様のおきてを教えられてきたので、善悪の区別を知り、正しいほうに賛成しています。…

ローマ人への手紙 3

1 では、ユダヤ人であることに、どういう利点があるのでしょう。 彼らには何か特典があるでしょうか。 ユダヤ人の割礼の儀式に、価値があるのでしょうか。 2 もちろんです。 ユダヤ人であることには、多くの利点があります。 まず第一に、神様はユダヤ人に自分のおきてをおゆだねになりました。 〔それは、彼らに神様の御心を知らせ、それを実行させるためでした。〕 3 確かに、ユダヤ人の中には不忠実な者がいました。しかし、一部の不忠実な者が神様との約束を破ったからといって、神様も約束を破るでしょうか。 4 絶対にそんなことはありません。たとい世界中の人がうそつきでも、神様は違います。 このことについて、旧約聖書の詩篇には「神様のことばに誤りはない。 だれが疑いを差しはさもうと、いつも真実で正しい」と書いてあります。 5 ところが、こんなふうに主張する人がいます。 「でも、私たちの神様に対する不忠実は、むしろよかったのではありませんか。 私たちの罪は、かえって目的にかなうのではないでしょうか。 なぜなら、人々は、私たちがどんなに悪い人間であるかを見て、神様がどんなに正しい方であるかに、気づくでしょうから。 すると、私たちの罪が神様の役に立っているのに、罰せられるのは、不公平ではありませんか。」 〔ある人々はこんな理屈をこねるのです。〕 6 とんでもない! 罪を見過ごすような神様があるでしょうか。 そんなことで、神様はどうして人をさばけるでしょう。 7 たとえば、もし、私がうそをついたとします。 それと対照的に神の真実がはっきりと際立ち、私の不真実が、かえって神様の栄光を輝かすとしたら、神様は私を罪人としてさばき、有罪の判決を下すことなどできなくなってしまいます。 8 このような論理を突きつめてゆくと、最後には、「私たちが悪ければ悪いほど、神様には好都合だ」ということになってしまいます。 しかし、こんなことを言う人がきびしく罰せられるのは当然です。 ところが、事もあろうに、私がそのように説教していると言いはる人々がいるのです。 9 それでは、私たちユダヤ人は、ほかの人々よりすぐれているのでしょうか。 いいえ、絶対にそんなことはありません。 すでに指摘したように、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、みな同様に罪人です。 10 旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。 「正しい人は一人もいない。 罪のない人は世界中に一人もいない。 11 真実に神の道に従って歩んだ人は かつて一人もいない。 そうしたいと心から願った人さえいない。 12 すべての人が道を踏みはずし、 みな、まちがった方向に進んで行った。…

ローマ人への手紙 4

1-2 この問題について、アブラハムの場合を考えてみましょう。 アブラハムは、人間的に見れば、私たちユダヤ民族の先祖にあたります。 信仰によって救われる問題について、彼はどんな経験をしたでしょうか。 彼が神様に受け入れられたのは、良い行ないをしたからでしょうか。 もしそうなら、彼は誇れたはずです。 しかし、神様の目から見ると、アブラハムには、誇る理由などみじんもありませんでした。 3 というのは、旧約聖書に「アブラハムは神様を信じた。 だから、神様はアブラハムの罪を帳消しにして、『罪のない者』と宣言された」と書いてあるからです。 4-5 しかし、アブラハムが天国に行く資格を得たのは、良いことをしたからではないでしょうか。 違います。 救いは贈り物として与えられるものだからです。 もし善行によって救われるとすれば、もはや無料ではなくなってしまいます。 ところが、救いは無料なのです。 救いは、自分の力で手に入れようとしない人にこそ与えられます。なぜなら、罪人が、キリスト様は自分を神様の怒りから救い出してくださると信じきる時に、神様は彼らを、正しい者と宣言してくださるからです。 6 ダビデ王は、救われる値打のない罪人が、神様から「罪のない者」と宣言される幸いについて、こう言っています。 7 「罪を赦された者、罪をすっかり消された者は、 なんと幸いだろう。 8 もはや主に罪を数え上げられないですむ人の喜びは、 どんなだろう。」 9 すると、次のような質問が出て来ます。 この祝福は、キリスト様を信じた上に、さらにユダヤ教のいろいろなおきても守っている人にだけ与えられるのでしょうか。 それとも、ユダヤ教の規則は守らなくても、ただキリスト様を信じてさえいれば与えられるのでしょうか。 アブラハムの場合はどうだったのでしょう。 「アブラハムは信仰によってこれらの祝福を受けた」と言われています。 それは、ただ信仰だけによったのでしょうか。 それとも、ユダヤ教のいろいろな規則も守ったからなのでしょうか。 10 この質問に答えるためには、まず、次の質問に答えなければなりません。 神様はいつ、アブラハムにこの祝福をお与えになったかということです。 それは、彼がユダヤ人になる前――すなわち、ユダヤ人として認められるための儀式である割礼を受ける前――のことでした。 11 アブラハムが割礼を受けたのは、神様が彼をその信仰のゆえに祝福すると約束された時より、もっとあとのことです。 割礼の儀式が行なわれる前に、アブラハムはすでに信仰を持っており、神様はすでに彼を受け入れ、ご自分の目から見て正しい者、良い者と宣言しておられました。 割礼の儀式は、そのしるしだったのです。 こうしてアブラハムは、ユダヤ教のいろいろなおきてに従わなくても、信じて救われる人々の、信仰の父とされています。 ですから、これらの規則を守っていない人々も、信仰によって神様から正しい者と認めていただけることがわかります。 12 アブラハムは同時に、割礼を受けているユダヤ人の、信仰の父でもあります。 ユダヤ人は、アブラハムの例から、自分たちはこの割礼の儀式によって救われるのではないとわかるはずです。 なぜなら、アブラハムは、割礼を受ける前に、ただ信仰によって神様の恵みを受けたからです。 13 そういうわけで、全地をアブラハムとその子孫に与えるという神様の約束は、アブラハムが神様のおきてに従ったからではなく、神様は必ず約束を果たしてくださる、と信じたからこそ与えられたことは明らかです。 14 にもかかわらず、神様の祝福は「完全に善良な」人に与えられると主張するなら、「信仰を持つ者に対する神様の約束なんか意味がない。 信仰なんかばかげてる」と言っているのと同じです。 15 ところが、実際には、神様のおきてを守ることによって神様の祝福と救いとを得ようと努力しても、結局は、神様の怒りを招く結果に終わるだけです。 なぜなら、それを守ることなど、とうていできないからです。 おきてを破らないためには、破るようなおきてを持たないにかぎります。 16 そういうわけで、神様の祝福は、無代価の贈り物として、信仰によって与えられるのです。 ユダヤ人の習慣に従うか否かに関係なく、アブラハムと同じ信仰を持っているなら、神様の祝福を確実にいただけるのです。 信仰の面から言えば、アブラハムは、私たちみんなの父です。…

ローマ人への手紙 5

1 そういうわけで、私たちは、神様の約束を信じる信仰によって、神の目から見て正しい者とされているのですから、今や神様との間に真の平和を得ています。 それは、私たちの主イエス・キリストのおかげです。 2 信仰のゆえに、キリスト様は私たちを、いま立っている、この最高の特権ある立場に導いてくださいました。 そして私たちは、神様の私たちに対する計画がすべて実現するのを、確信と喜びにあふれて待ち望んでいるのです。 3 私たちはさらに、さまざまの問題や困難に直面した時も喜ぶことができます。 それは忍耐を学ぶのに役立つからです。 4 忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。 こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。 5 そうなった時、どんなことが起ころうと失望落胆せず、また、万事が益であるとわかります。 それは、神様がどんなに深く愛していてくださるか、わかるからです。 私たちは、そのあたたかい愛を全身で感じています。 それは、神様が聖霊様を与えてくださり、その聖霊様が私たちの心に、神様の愛を満たしてくださっているからです。 6 私たちが逃れる道もなく、全く窮地に陥っていた、まさにその時、キリスト様はおいでになり、何の役にも立たない、私たち罪人のために死んでくださいました。 7 たとい私たちが良い人間であったとしても、だれかが自分のために死んでくれるなどとは、考えてもみなかったでしょう。 もちろん、そういう可能性が全然ないわけではありませんが。 8 しかし、私たちがまだ罪人であった時に、神様はキリスト様を遣わしてくださいました。 そのキリスト様が私たちのために死んだことにより、神様は私たちに、大きな愛を示してくださったのです。 9 キリスト様は、罪人のために、血さえ流してくださったのですから、神様が私たちを無罪と宣言した今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。 今やキリスト様は、やがて来る神様の怒りから、完全に救い出してくださるのです。 10 私たちが神様の敵であった時に、神のひとり息子の死によって、神様のもとに連れ戻されたくらいですから、私たちが神様の友となり、神様が私たちのうちに生きておられる今、どんなにすばらしい祝福が備えられていることでしょう。 11 今や私たちは、神様との驚くべき新しい関係を心から喜んでいます。 それはただ、主イエス・キリストが私たちの罪のために死んで成し遂げてくださったこと、すなわち、私たちを神様の友としてくださったことのおかげなのです。 12 アダムが罪を犯した時、罪は全世界に入り込みました。 アダムの罪により、死が全人類に広まり、すべての人は年老いて死ぬよう定められました。 それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。 13 これらの原因がアダムの罪にあることを、私たちは知っています。 というのは、もちろんアダムからモーセまでの時代にも、人々は罪を犯していましたが、神様はそのころには、ご自分のおきてを破ったかどで、彼らに死刑を宣告したりは、なさらなかったからです。――神様はまだ、彼らにご自分のおきてを与えず、また、彼らにどんな行為を望んでいるかも、告げておられなかったのです。 14 そういうわけで、彼らの肉体の死は、彼らの罪のせいではありませんでした。 アダムのように、禁断の木の実を食べるな、という神様の特別のおきてを破ったわけではないからです。 アダムと、やがて来ることになっていたキリスト様とは、なんと対照的でしょう。 15…

ローマ人への手紙 6

1 では、神様がますます私たちを恵み、赦し続けることができるように、私たちは罪を犯し続けるほうがよいのでしょうか。 2-3 もちろん、絶対にそんなことはありません。 罪を犯さないでいられるようになったのに、なおも罪を犯し続けてよいでしょうか。私たちがクリスチャンになり、バプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスの体の一部となった時に、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。 すなわち、キリスト・イエスの死によって、あなたがたの罪深い性質は打ち砕かれ、力を失ったのです。 4 罪を愛する古い性質は、キリスト様が死なれた時、バプテスマによって、キリスト様と共に葬り去られました。 そして、父なる神が、栄光の力でキリスト様を復活させてくださった時、あなたがたは、キリスト様のすばらしい新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。 5 あなたがたはキリスト様の体の一部として、キリスト様が死なれた時、いわば、いっしょに死んだのです。 そして今は、キリスト様の新しいいのちをいただいており、やがてキリスト様と同じように復活するのです。 6 あなたがたの古い邪悪な欲望は、キリスト様といっしょに十字架につけられました。 罪を愛する部分は、打ち砕かれ、致命傷を負いました。 それは、罪を愛する体が、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。 7 罪に対して死んでしまえば、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるはずだからです。 8 罪を愛する古い性質が、キリスト様といっしょに「死んだ」のですから、確かにあなたがたは、キリスト様の新しいいのちを共有しているのです。 9 キリスト様は死人の中から復活し、もう二度と死ぬことはありません。 死には、もはやキリスト様を支配する力がないのです。 10 キリスト様は、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。 しかし今では、神様との絶えることのない交わりの中に、永遠に生きておられます。 11 ですから、あなたがたの古い罪の性質を、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。 そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストによって、神様に対して生きる者、敏感に応答する者となりなさい。 12 これからはもう、あなたがたの短命な体を罪の支配にゆだねてはいけません。 罪深い欲望に従ってはいけません。 13 体のどんな部分をも、罪を犯すための悪の道具にしてはいけません。 むしろ、自分自身――あなたがたの全肢体――を、完全に神様にささげなさい。 なぜなら、あなたがたは、死人の中から生かされた者であり、神様の思いのままに使っていただく道具として、神様の良い目的に役立とうと願っているからです。 14 罪は、二度とあなたがたを支配しません。 なぜなら、あなたがたはもう、おきて〔このおきてを手段として、罪はあなたがたを奴隷にしたのです〕に束縛されてはおらず、神様の恵みとあわれみの下にあって、自由の身となっているからです。 15 それでは、どうなのでしょう。 おきてを守ることによってではなく、神様の恵みを受けることによって救われるのであれば、「かまわないから、どんどん罪を犯そう」ということになるのでしょうか。 絶対にそんなことはありません。 16 知らないのですか。 自分の主人は自分で選べるのです。 〔死を伴う〕罪を選ぶこともできれば、〔無罪の宣告を伴う〕従順を選ぶこともできます。 だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたを受け入れて主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。…

ローマ人への手紙 7

1 キリスト様を信じるユダヤ人の皆さん。 おきては死んだ人まで拘束しないことに、まだ気づかないのですか。 2 一例をあげれば、女は結婚すると、夫が生きている限り、おきてによって夫に束縛されています。 しかし夫の死後は、もはや束縛されません。 結婚の規定は、もう適用されないのです。 3 ほかの男と結婚したければ、結婚してかまいません。 夫が生きているうちは罪悪ですが、夫の死後なら、やましいことは少しもありません。 4 かつて、ユダヤ教のおきては、あなたがたの「夫」すなわち主人でした。 しかし、あなたがたは、言わばキリスト様といっしょに十字架上で「死んだ」のですから、「おきてとの結婚関係」は解消されました。 もうおきてに支配されることはありません。 そして、キリスト様の復活と同時に、あなたがたも復活し、新しい人になりました。 今では、死人の中から復活された方と「結婚している」のです。 神様のために良い実を結ぶため、すなわち、善を行なうためにです。 5 あなたがたの古い性質がまだ生きていた時には、罪深い欲望があなたの内部で跳びはね、神様のご命令には何でも逆らい、罪深い行ないという、死に至る腐った実を結びました。 6 しかし、もうユダヤ教のおきてや習慣にわずらわされる必要はありません。 なぜなら、それらに捕らわれていた間に、あなたがたは「死んだ」のですから。そして今では、心から神様に仕えることができるようになっています。 昔のように、一連の規則に機械的に従うのではありません。 心から喜んで、真心こめて仕えるのです。 7 私が、神様のおきては悪いものだと言っているとお思いですか。 絶対にそんなことはありません。 おきてそのものが悪いわけではありません。 それどころか、おきてが私の罪を明らかにしてくれたのです。 もし「心に邪悪な欲望をいだいてはならない」というおきてがなければ、私は、自分の心にある罪――そこに潜んでいる邪悪な欲望――に気づかなかったでしょう。 8 ところが罪は、邪悪な欲望に対してこのおきてを逆用しました。 このような欲望が悪いことをわからせながら、かえって、あらゆる禁じられた欲望をかき立てました。 破るようなおきてさえなかったなら、罪を犯すこともなかったと思います。 9 私は、おきてが実際に何を要求しているかを知らなかった時には、気楽に構えていることができました。 しかし、真実がわかった時、自分がおきてを破っており、死を宣告された罪人であることが、はっきりわかりました。 10 ですから、私に関する限り、本来いのちの道を示してくれるはずの良いおきてが、かえって、死の罰を科すものになってしまったわけです。 11 罪は私をだましたのです。 神様の良いおきてを盾に取り、私を死罪に定めたのですから。 12 しかし、おきてそのものは全く正しく、善であることは、おわかりいただけると思います。 13 でも、はたして納得できますか。 私に死の運命をもたらしたのは、ほかならぬおきてなんですから。 どうしておきてが良いものでありえましょう。 その張本人は、実は、罪なのです。 おきてを利用して死罪をもたらしたのは、悪魔的な、この罪だったのです。 罪がどんなにずる賢く、恐ろしく、いまわしいものか、わかるでしょう。 自分の悪い目的のために、ぬけぬけと神様の良いおきてを利用するのですから。 14 おきては良いものであり、それ自体に問題はありません。 問題はむしろ私にあります。 私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているからです。 15 私は自分が全くわかりません。 ほんとうは正しいことをしたいのに、できないのです。 反対に、したくないこと、憎んでいることをしてしまいます。…